きっと“彼”がこの世界に生まれて、僕たち障害者が地域で生活できるための活動をしていなかったら、今こうして介助者にサポートしてもらいながら自分が行いたいことに取り組むことや、当たり前のように好きな時間帯に好きなものを飲むことをできていなかったと思う。
もちろん“彼”だけではなく、同じ世代に生きて志を共にし、活動に対して自分の命を削って全身全霊で必要な制度や仕組みづくりに向き合ったことに対して心から感謝すると共に、残された僕がやるべきこと・次の世代に残すべきこととしっかり向き合って行動していく。
僕が中西正司さんと初めて会ったのは、まだヒューマンケア協会が今の事務所の場所ではなくJRの中央線の線路が近くにある場所へ、当時小学2年か3年の頃に母親に連れられて事務所を訪れたときだった。
母親が何かの用事で僕を誰かに預けたいという相談を市役所の福祉課へ相談したところ、ヒューマンケア協会を紹介されて訪れた時に他のスタッフが全員出払っている事務所の中に中西さんが待っていてくれた。
その時の相談についての中西さんからの返事は覚えていないが、「お母さん、この子は絶対に将来、自立生活をせせたほうがいいです。」と言った言葉だけは30年以上経過した今でも何故だか鮮明に頭の中に残っている。
今はとてもその言葉に対して感謝しているが、当時の僕の中西さんに対しての印象は“すごく怖そうで変わった人”、その印象はずっと変わらずにあって付け加えるとするなら“誰よりも勉強熱心で、障害者運動のことに対しては命を削っている人”で、ずっと憧れの存在だ。
2020年の新型コロナウイルスのパンデミック以降、中西さんと直接会うことはなくて、僕が最後に会って交わした言葉は2019年に重度訪問介護の時間数の交渉を福祉課と行なって、無事に744時間を獲得したことを報告した時に、「良かったな!やっぱすごいな!!」と言葉をかけていただいた時はものすごく嬉しかった。
20歳から32歳の12年間をヒューマンケア協会のスタッフとして、中西さんの下で働かせていただく中でほとんどが叱られて指導を受けてばかりいた中で、とある事情で僕がヒューマンケア協会を離れる時に当初からMy Actionの活動を行なっていることに対しての言葉が、「団体の代表としては応援しない。個人としてはお前のやることは応援する」と小さな声での言葉が、またかっこよかった。
その後、僕がヒューマンケア協会のスタッフから離れてからは、しっかりとした結果や何かしらのカタチを作り上げるまでは中西さんと積極的に会うことはやめようと根拠にない理由で会わずに、最期を迎えてしまった。
スタッフとして働いていた中で、中西さんから言われたことは当時の僕の中では最優先としてなるべく期待に応えていたつもりだったが、きっと中西さんからしてみれば納得するものの範囲外に僕は存在していたと思う。
それでも、当時は中西さんの役に立ちたい!ヒューマンを将来背負っていきたい!!といった想いと、いつか中西さんを超えたい!といった想いを持ち合わせていた時期もあったのだが、僕が中西さんと同じようなことを行ったとしても(できないのは大前提)、それは僕のカラーではなく中西カラーを継承しているだけであまり意味がないと思うようになった。
その後、動きながら考えていく中で現在のMy Actionのコンセプトである、“福祉とエンターテイメントで、世界中の人を笑顔に!!”に辿りつき、中西さんがヒューマンケア協会を設立して成し遂げてきたことと比べたら、僕なんかはまだ1割にもたどり着いていないと今回の件で改めて思い知らされた。
ここ5年近くの中西さんのことはあまり知らなくて、まだ僕の中の中西さんの印象は“前進することしか考えていない”と言ったものなので、中西さんが亡くなったことに対して悲しむことをすると、「そんな暇あるなら勉強して動け!!」とまた怒られそうなので、僕にしかできないことを考えながら行動へ移していくことがきっと中西さんに対しての“感謝と弔い”だと思う。
My Action General producer・Performer Sugiyama.